片貝「祭る」の10年 ‐其の二-

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“佐平治の心を探して”と銘打った「小さな町の記憶展」。ご来場の皆さんは“心”を見つけだせたでしょうか?

個人的には今回、いろんな形の“心”に触れることができたように思います。ご協力いただいた皆さん、ありがとうございました。今回の記憶展を振り返ります。

当日、あいにくの雨のため屋内の忍字亭2階に避難する方も多くありました。そのおかげか、多くの人に佐平治にまつわる物語に触れてもらえたかなと思います。展示をじっくり見入るおじいちゃんから、走り回る子どもたちまで。

佐平治のことを知っている人も、初めて知った人も。皆さんが同じ空間で過ごしながら、確かに佐平治と時を同じくした、というような雰囲気を作り出せたかなと思います。

今や、佐平治の姿を実際に覚えている人はそう多くはありません。まして、江戸時代の飢饉救済の本人たちはもはや物語の世界の登場人物のように、刻一刻と遠ざかっています。

なんとか、現代の今この瞬間に、失われゆく記憶を少しでもつなぎとめられないだろうか。

今回、展示した資料はおよそ50点。全て佐藤家のご親類や町の人からお借りした品々でした。佐平治の生きた証を感じられる、この町、この場所にとっては非常に価値のあるものだったのではないかなと思います。

歴代当主の木像・肖像・写真から浮かんでくる佐平治の顔。酒器や生活用具、家計簿から見えてくる佐藤家のリアルな生活。紋付や大風呂敷からうかがえる、ファッションセンスなど。実在した人間・一族としての痕跡が令和の時代に蘇っただけなのですが、一族のファミリーヒストリーはこれまで踏み込まれてこなかったためか、忍字亭にこれだけ色濃く佐藤家が帰ってきたという状況に、妙な感動を覚えたのが不思議でした。

新たにこんなモノが見つかりました!という考古学的発見というよりも、知られざる(神話のような)物語を掘り起こしたかも(!)という瞬間が数多くあった。

救済活動のみならず、その背景にある人となりについても語ることで、佐平治が今なお人々を惹きつける存在であることが分かる。記憶展の準備段階から、漠然とそんなことを思っていました。

解説用の物語パネルを用意しましたが、控えめな掲示で、あまり意図が分かりづらかったかもしれません。それも、これまで自ら語ることを良しとしなかった佐藤家のスタンスの延長ということで(笑

やはり、佐平治が「いかに語られ」、かたや「意外にも盛んに語られてこなかったのか」と言った伝承過程、民俗説話的な受容のされ方が、非常に重要なのでは。片貝の人より、むしろ津南の人の方が雄弁であることが、妙に象徴的です。

 “誰もが知っていながら、なかなか口を開くことが難しい”ということが、町の中心に邸宅を構え、去った後にも物語の中心であり続ける佐藤家の存在感の大きさを物語っているんじゃないでしょうか。

上のお椀と酒器は、できたての新米、新酒を入れて、佐藤家の神前に備えていたものだとか。

不在の主、と言っても違和感のないほど、佐藤家が去った後の忍字亭の空間は、ある意味で空白地帯として、ぽっかりとあるような気がしています。

下は大きいケヤキの板にかかれた、佐平治による「以勤補拙」の大書。

今回の記憶展では、新たな資料の発掘や、貴重な資料の数十年ぶりの帰還などが次々に起こりました。どれも、驚くようなレベルのことなのですが、いかにも平然と、この時を待っていたんじゃないかとさえ思うほどに自然に、小さな事件として続発しました。

忍字翁こと19代佐平治の「忍」の掛け軸。それも2種類が群馬県伊勢崎市のご親類の方のご好意で、十数年ぶりに片貝へ里帰り。

しかも「百戦百勝、一忍に如かず」と沢庵和尚の禅語が書かれた「忍」の字には、僕らの想像を超える柔軟さと遊び心があった。

「忍」という字は、「心」の上に「刀」が置かれています。

“忍耐”、”堪忍”、”忍者”…. 様々な感情うずまく自分の心を制御する、精神力の鋭さを物語る字のように思われます。

村の人々から”忍字翁”と呼ばれた19代佐平治は、人々の家を訪ねては、囲炉裏や地面に「忍」の字を書き、口グセのように”堪忍”の心を説いてまわったとか。

そういえば、佐平次は、一介の造り酒屋にして名字帯刀を許された人物でもある。21代佐平治の肖像(掛け軸)には、紋付姿の腰に刀が見えます。しっかりと鞘に収められて。

刀を腰に差していたとしても、それを使わずに収めていることこそが、”堪忍”の心の威力を象徴しているようにも感じられた。もちろん、武士ではない佐平治がその刀を実際に使うことはなかったでしょうが。

子どもたちに書いてもらった習字の「忍」。「何を書いてもいいよ」というと、本当に自由。上手い下手でもないし、何も文字だけに限らないよね。ちょうど雨も上がって、ぐっと軽くなれたような気がしたり。

今回、あらためて分かったことの一つに、江戸時代から明治にかけての片貝、蒲原、柏崎界隈の密度の濃い交友関係と、教育ネットワークの広がりがあります。

片貝の朝陽館に端を発した中越の教育熱のようなものが、燕に長善館を生み、柏崎に三余堂を生み、お互いの子弟を行き来させ合ううちに発展していったというのが、ものすごい。長善館と三余堂は明治後半、私塾としては「北越の双璧」として政府から讃えられるほどに。そのどちらも、片貝の朝陽館で学んだ片貝出身者が創始したり(三余堂初代塾主・藍沢南城)、黎明期を支えていたり(長善館2代塾主・鈴木惕軒)。

全部合わせて何千人という門下生が、越後の農村から、激動の日本社会を動かしてゆく人材として送り出されたたらしいのです。特に医療、学問研究分野では、現在までつづく大組織の基礎を作り出した人物が何人もいます。

日本赤十字社4代社長の石黒直悳(片貝池津)、日本医科大学・東京医科大学などの前身となる済生学舎の長谷川泰(長岡新組)、東京医科歯科大の前身を作った島峰徹(片貝二之町)、北海道開拓社の関矢孫左衛門(魚沼並柳)、日本初の公立小学校の設立者・山本比呂伎(小千谷)、東洋大学創始者・井上円了(長岡浦)などは、みんなこのネットワークの卒業生たち。

ここで言いたいのは、偉い人がたくさん輩出されたということではありません。学んで得たものを社会に還元した人々がたくさんいたということ。

これは、今回の記憶展を準備するため、忍字亭と酒座川を挟んで向かい合う北佐藤家にお邪魔したときに、ふと片岡さんが言った言葉でした。

「今みたいに、自分のために勉強するんじゃなくて、昔は、村や周りの人のために勉強していたのかもしれないね。途上国の子どもが医者を目指して勉強するのと同じで、目の前の問題を解決するために学びがあって、自分一人の学びに留まらなかったのかもね」

本質を突いているかもしれない。個人的に最もハッとさせられた瞬間でした。

確かに今では、勉強は個人のためになっていて、転出過多の人口問題と同様、地元に還元・循環する機会はあまりないのが現状かも。しかし本来、私塾や学校といった学びの場ができたばかりの頃って、学ぶこと自体にものすごく明確な意味があったし、個人に止まらない効果があったように思えます。片貝の朝陽館や戊辰戦争後の小千谷小学校、長岡の米百俵の故事など、かつての教育は、社会課題の解決・改善を目指して巻き起こったムーブメントであるのだから。

戊辰戦争で焦土と化した長岡の周辺で、教育による社旗秩序の再編の機運が起きたのは、ある意味で当然のことだったのかもしれない。経済を立て直すのと同じくらいに、まずは人々を前に向かせるために。それには、未来ある次世代に力と自信と、覚悟を身につけさせることが何よりの先手であったはずです。

また、祭るの翌日、良い事件がありました!

朱色の漢字が刻まれた、一対の木の板。

主催の紺仁さんのもとに小千谷から佐平治の関係品らしきものが持ち込まれたという。忍字亭として公園に整備される際に、解体業者から受け取ったものだとか。

よく見ると、木は波打つように所々丸みを帯びている。「縄の跡があるね」と紺仁の佑介さん。「酒造に使っていた木桶だとしたら」と一同高鳴るものがありました。

文字を追って見ると「25代佐平治」の文字が。「没後」にどうのこうのとあるようで、頑張って読んで見ると以下のようになるかと思います。

板1<表面>朱掘り
我是人間一癈材 ●星巌翁句
※タガかナワの跡が残り、タライであったことが分かる。

<裏面>朱書き
貞園號聴梟通称貞太郎/三島郡片貝村住而第二十五代佐藤佐平治也/瘦軀如鶴/襟懐甚清其性有潔癖/見汚穢如蛇蝎/日常使婢洗滌纏身物/其器必專用盥/備二個/一則上衣類/盥側面自録星巌翁「我是人間一癈材」之句/一則下着類/亦録欅隂之句/惟避與他混同/又區別上下用也/貞園没後連綴盥木片/更刻其字爲柱聯/以期永保云

板2<表面>朱掘り
五十年晝と夜と櫻哉 ●欅隂句

<裏面>墨書き
板1と同

<現代語訳>
貞園は聴梟と号し、通称は貞太郎といった。三島郡片貝村に住んでいる第二十五代佐藤佐平治のことだ。体は鶴のように痩せ細り、身だしなみは甚だ清らかで、少々、潔癖性の気があった。汚れはヘビやサソリの類いのように嫌がり、日頃から召使いに身に纏う物を洗わせた。その器は必ず專用のタライを用いた。タライは二つ備えてあり、一つは上着類を洗うもので、側面には梁川星巌翁の句「私は世に要らなくなったもの」をみずから書いた。もう一つは下着類を洗うもので、こちらには欅隂の句「50年、昼と夜と桜かな」を記した。他のものと混同することを避け、上着用と下着用とを区別して用いた。貞園の死後、そのタライの木片を連ねて繋げ、さらに句を刻んで柱聯となし、こうして長く保つこととした。

梁川星巌は、江戸末期の著名な漢詩人。欅陰は誰かわかりません。が、欅というと佐藤家の大ケヤキが思い浮かぶので、もしかすると身内の雅号か?

「我などもう役立たずの存在」「人生50年、昼と夜と桜かな」

この一対の柱聯。記録によると37歳と若くして亡くなった25代佐平治(貞太郎)の人となりと、その慕われようが伺える貴重なものでした。ここでもやはり、単なる歴史的価値以上に、ふんだんな物語性がまず、胸に迫ってくるように思います。

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「花火のち晴れ」は、花火のふるさと“カタカイ”の日々を記録する日記のようなものです。いつもの静かな朝から、熱狂的なお祭りの夜まで。どこにでもありそうで、世界のどこにもないかもしれない、この町の姿を伝えていきます。

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