長岡花火のルーツに2人の片貝人?- 大花火文化圏は今も昔も –

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今日から長岡まつり。花火大会としての長岡花火は明日からの2日間ですが、数発の重要な花火が打ち上がるこの日こそ、長岡に生まれ育った人にとっては、一番思いを寄せる日だといいます。

8月1日は、74年前の1945年、長岡の市街地を壊滅させた長岡空襲の当日です。

空襲のその夜、隣町の片貝や小千谷からは、長岡の街の方角の空が赤く燃え上がって見えたと聞きます。

今朝8時ちょうどに、片貝でも数発の花火が打ち上がりました。気温が30度に迫る猛暑のなか、何かに呼応するように花火が響いていました。

長岡の「復興」の歴史、現在の長岡花火の基調をなす「再生への願い」の本流は、この日のような出来事から、何度も始まっていると言っていいかもしれません。

けれども、さらに遡ると、長岡花火の黎明期にも、同じように「復興」の歴史があったことが見えてきます。

それは新潟・長岡における明治維新、「戊辰戦争」の敗戦からの「復興」でした。

評価の難しい長岡藩の家老・河井継之助とともに散った長岡は、明治時代の到来とともに負の時代に突入します。全てを失った敗戦側が立ち直るには、あらゆる面でかなりの時間がかかったことでしょう。

再建のためあらゆる知恵をしぼる中、明治12年(1879)年、信濃川付近の繁華街で一つのムーブメントが起きます。

前年に片貝村の富豪・佐藤某の招きで片貝花火を見た遊郭関係者により、長生橋付近で花火大会が行われたのです。その花火大会は以降30年間にわたり、大いに隆盛。なんとも、いかがわしいイベントのように聞こえますが、前途多難な戊辰戦争からの復興へ向けた、ライトでヤンチャな方面からの景気刺激策の意味合いがあったとも言われています。

上は明治15年の片貝花火の記録を伝える煙火番付。自ら花火を打ち上げた大の花火好きの旦那様「佐藤」の名前が見える。

実は、遊郭主催のこの花火こそが、長岡花火の原点なのです。

それは長岡市の歴史を編纂した『長岡市史』にも明記されていることです。

  “長生橋下における煙火打上の最初は、明治139月であった。その前年、長原遊郭大島屋のつるという芸妓(後の料理店若満都の女将)そのほか両三輩が、片貝の富豪佐藤某に伴われて、その地の煙火を見物し、その妙技に魅せられて帰ったが、数日を経て某は再び大島屋に来り、大勢の芸妓を集めて、片貝のような煙火を打ち上げて、長岡の町を賑わしてみる気はないかと懇談し、なお、もしそうなれば自分も双肌を脱いで寄付もしようし、一臂の力をも貸そうと激励したので、一同は進んでこれに賛同し、各方面に交渉の上、⑴主催者は遊郭全体がこれに当たること、⑵期日は翌139月遊郭の鎮守の秋祭りに献納すること、⑶場所は長生橋下柳島で打ち上げること、⑷煙火は廓内の芸娼妓の力を借りて、銘々その馴染みの客へ無心を言わせて寄付してもらうこと等を決定して、準備に着手した” <『長岡市史』煙火の起源「長岡煙火」>より引用

(上は越路原から長岡花火を望んだ際のイメージ)

長岡に花火を伝えた片貝村の富豪・佐藤某の姿が、なんともまことしやかに書かれていました。

  “長岡の準備が順調に進んで、煙火熱がようやく高くなると、これを聞いた佐藤某は大いに喜び、趣味の上からも発頭人たる責任上からも、ぜひこれを成功させしめねばらなぬというので、居村の若者を督励し、片貝煙火の長技を示して、長岡市民をあっと言わしてやろうと、多額の私財を投じ、腕に撚りをかけて製造せしめたもの数十発を寄付に及んだ。隠して総計200余発の寄付を得て、日本紙木版刷4枚綴りの番付を作って、寄付者はじめ関係者に配布し、いよいよ914日当日になると、明け方密雲の閉じた天気は、漸次拭うがごとく晴れ上がり、全てが予定の通り進行して、大盛況裏にその第一回打ち上げを終わった。<『長岡市史』煙火の起源「佐藤の奮発」「第一回の打ち上げ」>より引用

最初の花火大会の活気ある光景は、それまでのどんよりとした暗雲を一気に晴らすようなイメージだったのかも知れません。

  “この煙火のために長岡市内一般の殷賑を増したことはもちろんで、遊郭の繁盛もまた別格であったので、長岡繁盛策としても。年々の行事の一つとして打ち上げることに決し、廓の人々の肝煎りで、明治42年まで30年間も続いた。しかるにすでに長岡の一名物となった煙火を、いつまでも廓の支配にまかせておくもは面白くない、よろしく長岡全市の催しとして打ち上ぐべきであるとの議が起こり、北越・越佐両新聞社と商業会議所とが主唱者となって、長岡市煙火協会なるものを組織し、一切の仕事を引き受けることとなった。この時をもって、長岡の煙火は花柳界の手を離れて、全く市民の手に移った。時は明治43年で、爾来今日まで継続しているのである。”<『長岡市史』煙火の起源「経営者の変更」>より引用

片貝の花火好きの富豪・佐藤氏との交流をきっかけに、長岡花火は、遊郭で産声をあげました。その後、回数を重ねてどんどんと花火熱が膨張していくうちに、長岡市の発足、そして油田開発や鉄道敷設によって経済の再建が追いつき、戊辰戦争の敗戦からの復興を成し遂げられました。その再生の証として、長岡の花火大会は、市全体での記念祭・ビッグイベントへと引き上げられて行った、という見方ができるように思います。

ここでさらにもう一人、長岡花火がまさに市全体の記念祭に進化するという明治末のタイミングで、その歴史に大きく関わったのではと思われる片貝人を紹介したい。

その人物は、長岡商工会議所の初代会頭・渡辺藤吉。

渡辺藤吉がどんな何者だったのかは、長岡地域の石油産業の発展をめぐる論文から見えてきました。

  “ところで、宝田石油の企業成長に大きく寄与したのが、片貝村出身の渡辺藤吉である。 渡辺は、大塚米吉の三男として1859(安政6) 年に生まれ、縁あって1870(明治3)年に長岡表三之町の渡辺清松が営む呉服店(大清)に奉公に入った。勤勉な姿勢が清松から認められて渡辺家の養子となり、清松の養嗣子である六松の長女と結婚し、74年に観光院町に分家・独立した。” <『新潟県小千谷地域における機械工業の生成と発展』長岡大学教授・松本和明>より引用

片貝の大塚家の出身で、長岡表町の奉公先で認められて養子になっていたのだ。さらに論文は続ける。

  “渡辺は、岸宇吉や三島億二郎、松田周平などの長岡地域の各界の有力者から信頼を得ていた。1880年代に入ると、彼らの指導を受けつつ、同世代の星野伊三郎や覚張治平および太刀川輔三郎(後に藤十郎)などとともに、共愛社、長岡商業諮詢会、三夜会、長岡経済会などの民間経済団体の結成と運営に携わった。これらを踏まえて、商業会議所の創設にも力を注ぎ、1905(明治38)年3月の長岡商業会議所の設立に伴い初代会頭に就任した(1925年まで8期在任)。”

戊辰戦争で破れ、荒廃していた明治期の長岡経済界で、藤吉は仲間とともに手腕を発揮し、信頼を勝ち取っていたらしい。もちろん、商工会議所の会頭は今も昔も長岡の経済界の要職。藤吉は大正14年まで8期20年間にわたって、初代の会頭を務めたことになります。

宝田の油田開発や上越線・信越線・栃尾鉄道などの敷設は、間違いなくこの頃の長岡の経済を牽引し、もちろん同時に長岡花火の規模拡大にもバックスポンサーとして大きく寄与したと言われている。

そして何よりも驚くべきこと。

長岡花火が遊郭主催のものから市全体の記念祭として進化する再スタートの時に、新たな主催運営団体・長岡市煙火協会を組織した長岡商工会議所初代会頭として、片貝生まれの渡辺藤吉が名を連ねていたんです。

(このことに気づいた時、早ガッテンかもですが、非常に熱いドラマを感じました。長岡花火の変遷の歴史には、要所要所に花火に通じ、やはり熱く語れる人物がいたんだろうということです。)

さらに、長岡で初の二尺玉の打ち上げに成功したのも、藤吉のころ。大正6年のことでした。以降、花火自体の大型化と大会規模の拡大傾向が、戦争の影が濃くなる昭和12年まで続きました。

当時すでに二尺玉を打ち上げていた片貝花火を知っていたからこそ、長岡花火も刺激を受け、有機的に進化していったのかもしれません。

さて、今年はどんな花火が長岡の空を埋め尽くしてくれるでしょうか。

見上げる時に、ぜひこれまで辿ってきた物語も思い出してみてください。

今日のお話は、中越に存在しているかもしれない花火文化圏をめぐる、ひとつのロマンに過ぎないかもしれませんが。

 

追加)

また、藤吉という人物は大正期の資産家としても記録が残っていました。

  “60万円 渡辺藤吉(鉱業)長岡市観光寺(院の誤り?)町

  財産種別 50万円有価証券、10万円不動産

  略歴 大塚米七(米吉の誤り?)の三男として安政6年2月10日に生まれる。渡辺六松の娘婿。石油開発事業にとても貢献し、現在は長岡商業会議所会頭、市参事会員、宝田石油・魚沼鉄道・長岡鉄道のそれぞれで取締役、栃尾鉄道株式会社の社長。”<神戸大学経済経営研究所の新聞記事文庫にある『時事新報社第三回調査全国五拾万円以上資産家』時事新報 1916.3.29-1916.10.6(大正5)>より引用、全体的に現代語訳

さらに渡辺藤吉の父・六松の項目も見つかった。

  “130万円 渡辺六松(製糸業)長岡市表町

  財産種別 90万円有価証券、40万円不動産其他

  略歴 金平の五男で、弘化2年7月10日に生まれる。先代の養子となり、まず呉服商を営みその後に石油と製糸業の開拓に力を尽した。現在は長岡鉄道株式会社の社長、長岡製糸場長。”<同>より引用、全体的に現代語訳

 

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「花火のち晴れ」は、花火のふるさと“カタカイ”の日々を記録する日記のようなものです。いつもの静かな朝から、熱狂的なお祭りの夜まで。どこにでもありそうで、世界のどこにもないかもしれない、この町の姿を伝えていきます。

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