花火の中断史 -片貝花火の場合-

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新型コロナウイルスによるパンデミックのなか、全国で花火大会の延期・中止が相次いでいます。

大玉の打ち上げ花火において国内で最も長い歴史を持つ新潟県も例外ではありません。7月の”海の柏崎花火” 、8月の”川の長岡花火” が大きく揺れています。

そして、それに続く9月の “山の片貝花火” はいったい、どうなるのでしょうか。

日本のみならず、世界中が大きな苦しみを抱えている今、こうして"花火"について頭を痛めていられることは、まだまだ楽天的と思われるかもしれません。

それでも、町民それぞれが花火の奉納者として、協賛者として、(あたかも文化保持者のように)花火をより内面的かつ自らの一部分として捉えることもある片貝の場合、花火が打ち上がるかどうかはとても切実な問題に思えるのです。

「自分たちはなんで花火を上げるのか?」

そんな声が今一度、花火に関わる一人ひとりの胸に問いかけらているように感じます。

そんな時こそ、振り返るべきは"過去"かも知れません。今回、手に取ったのは先人が記したいくつかの郷土史本。

半径1kmくらいの足元に眠る身近な過去を尋ねてみると、「花火の中断史」ともいうべき、意外にもタフな歴史的花火観がぼんやりと浮かび上がってきました。

歴史的な危機を前に、人々は花火とどう向き合ってきたのか。片貝花火における中断の歴史を拾ってみます。

そもそも、片貝の花火の歴史は江戸時代にさかのぼります。

1802(享和2)年 716日楯の観音再建。盛大に花火上がる。(やせかまど)

1839(天保10)年 一王子宮(現浅原神社)祭礼、旧暦89日(現99日)花火打ち上げ

1867(慶応3)年 『大花火』に628日から3日間、楯の観音に於いて花火打ち上げ。尺玉7発はじめ158発ほかに地雷火など。↓

もともと、片貝の花火は一之町の「楯の観音」というところの祭礼で打ち上げられていました。現在の片貝まつりの舞台・浅原神社でも花火が打ち上がるようになったのは、その後のことでした。明治に入ると、廃仏毀釈によって寺院系の楯の観音自体が廃れていき、花火の打ち上げ場所が浅原神社に一本化されていきます。

幕末も幕末、明治維新の前年(1867年)にも盛大に花火が打ち上げられていた片貝。

新潟においては明治維新のことを「戊辰戦争」と言う機会が多いのですが、ここ片貝も、新政府軍と長岡藩との間で戦火が上がります。その後しばらく、花火がどういった状況であったかは定かではありません。

↑かつてのパンデミックとも言える「スペイン風邪」が日本でも大流行した大正7〜9年。片貝に影響はさほどなかったのか、7年(上の画像)と8年は通常通りに花火は打ち上がっていました。

ところが、地元の古老・吉井和夫さんが『丸松雑記』にまとめた花火の打ち上げ数記録を見ると、大正6年、9年、12年の打ち上げ記録が分かっていません。単純に資料がないだけかもしれませんが、大正9年はもしかすると「スペイン風邪」の影響があったかも知れません。さらに、大正12年は、片貝まつり直前の9月1日に関東大震災が起こっています。

1937(昭和12)年 7月に盧溝橋事件(北支事変)。賑いを中止。社務の煙火と相撲のみとする。

その時代の痕跡となるモノを、昨年見つけました。に組総合センターに引き継がれている「に組倶楽部」の巨大な表札です。今も変わらず、町内の花火を取りまとめる「に組」の若者組に対して、同じ町内の佐藤佐平治(大規模な酒造りと救済の偉人)家の当主が題字を書いたもの。

昭和12年7月の盧溝橋事件によって日本が第二次世界大戦に突入していくなか、その年から終戦を迎える昭和20年までの間、奉納煙火は中断を余儀なくされました。当時の若者たちが意気揚々と新調したであろう表札は、図らずも最初の花火祭りを迎えるまでに9年の歳月がかかってしまったのです。

とはいえ、『丸松雑記』には面白い記述があります。

1941(昭和16)年 太平洋戦争のため、花火全面禁止となる。 それまでは一部上げていた?

奉納煙火や、祝砲、社務の煙火など、一口に「花火」といっても、打ち上げる目的や誰が打ち上げるかによって上手に使い分けていたのかもしれません。

(ちなみに、終戦の年にも花火が上がった、という噂話も耳にしたことがあります。)

そして、花火復活の時。

1946(昭和21)年 秋祭り復活する。各町内の玉送り・南部の屋台を行う。合計309発。(再開前の昭和11年は645発)

1947(昭和22)年 町制施行。筒引き復活。

戦後初めての祭り(=花火)を迎えた時の笑顔の写真が、その喜びを物語っています。

さらに、故・安達常造さんの『片貝村青年會物語』に掲載されている「片貝新聞」の断片をみると、戦後まもなくにも、若者の間では特定の奉納煙火の中止をめぐる議論が巻き起こっていました。その問題意識は、村祭りから町祭りへの転換の議論や、新制中学校の建設と重なったことによる打ち上げ自粛の提案など。この町の花火が、その時代の社会情勢をはっきりと反映するものであったことがうかがえます。

どんな時に花火を打ち上げなかったのか、という問いは、裏を返せば、何を願い、どんな時に花火を打ち上げてきたのか、ということ。深い問いのヒントになる気がします。

1965(昭和40)年 9910日大祭当日台風24号襲来のため煙火打ち上げを11日夜に日延べし打ち上げた。

「どんな天候でも花火は上がる」と伝説のように言われたこともありましたが、かつて台風の直撃により順延したことが記録に残っていました。

この他にも、この町には幸いにも” 花火と人生の記録史"なる「奉納煙火番付・目録」という膨大な花火の記録があります。

まだまだ調べることがありそうです。

さて、時代は令和2年の春。

今年の花火の行方が気になるところですが、ぜひこの機会に皆さんで考えてみたいことがあります。

私たちと花火の関係は、いったいどのようなものであるのでしょうか。そして、事態の収束後の世界では、花火はどんな意味を持つのでしょうか。

 

【参考文献】

・安達常造『片貝村青年會物語』(1995年)

・片貝伝統芸能保存会編『片貝木遣り歌考』(1997年)

・吉井和夫『丸松雑記』(2015年)

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