2020.07.02
2020年がまた、忘れられない年になった。
その理由はコロナ禍やオリンピック延期、片貝まつりの中止だけではない。
新潟に暮らし、働き、休日を過ごす自分にとって。リスナーのひとりとして。
2020年は、FM PORTというラジオ局があったことを胸に刻む年になってしまった。
新潟県民エフエム放送(愛称:FM PORT)は、2000年12月30日に開局した新潟県域の第二FMラジオ局。そして、20周年目前の2020年6月30日に惜しまれながら閉局を迎えた、伝説のラジオ局だ。
あらゆる番組が最終回を告げて、不思議な空気感のまま迎えた翌朝は、雨。通勤のためエンジンを入れたカーラジオに流れたザザザ…という砂嵐。そのままチャンネルを変えずに、職場までの田んぼ道を走った。コシヒカリの稲が以前より青々としているのが目に見えて分かった。もうこんな季節。今日から7月か。FM PORTが存在しない時間が、本当に始まったと痛感させられた。
それでも、FM PORTとの最後の時間に奇跡は起こった。
少なくとも自分は、そう思っている。だから、まだ元気でいられる。PORTロスと言える喪失感が合間合間に打ち寄せて来るのだけれども。
その始まりはFM PORTが閉局する1ヶ月前だった。
新潟にUターンして以来のリスナーだった自分は、密かに閉局の夜に花火を打ち上げようと思っていた。片貝まつりの中止を受けて、ものすごい勢いで発足した「片貝花火サポーターズ倶楽部」の一員でもあり、消防に提出する花火の打ち上げ申請期限の1ヶ月前を迎えた時、ふと6月30日の日付を思い出したのだ。(※花火の打ち上げには、事前に消防への申請が必要なのです。)
その頃はまだFM PORTがあと1ヶ月聞ける、といつも通りに過ごせていた。
ところが、6月最後の1週間に入ると、にわかに状況は変わった。曜日によっては最後の番組が出てきた。「本当に終わるんだ」。頭では分かってはいたし、受け入れていたつもりだった。なのに、どんどんと取り返しのつかない日が近づいてきていることを意識せざるを得なくなった。
閉局4日前の夜、SNS上で「かくれPORTリスナー」であること、そして「ありがとう」を花火に込めようと思っていることを告白。ひとりで一方的に想いを伝えようかと決めていたのだが、お別れの日が近づくにつれて、PORT愛を隠しきれなくなっていた。
これまでかくれていてごめんなさい、という、誰に謝っているのかわからない謎の感情が自分を動かした。
「PORTさんへ、花火で想いを伝えるのはありですか?それともふつうにメッセージを送った方がいいでしょうか?」
すると2分で反応があった。「どっちも!」東京でラジオ曲スタッフのバイトをやっていた友人から。そのあと立て続けに「どちらもだと思います。私も協力します」「やるぞ!」「素敵なアイディアですね…!」と友人・知人が返信をくれ、気付いた時には、元同僚の春日さんという非常に純なPORTリスナーの先輩が窓口になってくれることになった。
当初、閉局の夜の花火は、ひとりで5号玉花火か、頑張って7号玉花火でも打ち上げようかとイメージしていたところが、尺玉となり、あれよと言う間にさらに尺玉。花火師さんの想いもありさらに尺玉と、最終的に尺玉3発の「FM PORTありがとう花火」にまでふくらんでいた。
それだけでも奇跡だった。
でもまだ奇跡が終わらない。
なんと番組内で「明日花火が打ち上がるらしい」という形で情報を取り上げてくれたのだ。
何が起きているのか。春日さんから連絡。「届いているらしいよ」
花火が打ち上がる前に、いくばくかの想いは、すでにラジオ局のスタッフへ届いていたらしいのだ。そこからは怒涛の展開だった。最終放送日の6月30日朝のモーゲーの遠藤麻理さん、昼のミントコンディションの立石さんと立て続けに花火の情報が口に。待て待て、島村仁さんのビートコースターの公式Twitterが、花火の配信用Youtubeチャンネルのアドレスをツイートしてくれている…!何が起こってるんやマジで。
どうやら裏で動いてくれたリスナーさんやスタッフさんたちがいたことを後から知ったのだが、どうしてそんな、最後の日だというのにそこまでしてくれるの、とかえって申し訳ない気持ちが先行した。自分たちは勝手に花火を打ち上げて、勝手に想いを遂げるつもりでいたのだけれど。それなのにむしろ、最後の放送日という貴重な時間を割いてまで、こちらと繋がろうとしてくれたのだろうか?
仕事が手につかない、ふわふわとした1日。時計ばかりが確実に進み続けて、19時55分。春日さんが企画した花火打ち上げのライブ配信が、島村仁さんの余韻とともに始まる。
そんな中、20時からは最終番組「MANY THANKS FROM FM PORT」。冒頭から、遠藤麻理さんと松本愛さんという開局当初を知る2人が女子会ノリで、またまた花火の話。
その頃確かに、自分たちはスタジオのある新潟市万代からは100kmはあろうかという小千谷市の片貝・浅原神社で、大きな花火を見上げていた。初めの尺玉1発。そして「ありがとう」の尺玉2発。3つの花火はどれも、PORTらしい「青」の大輪だった。
春日さんは「かくれリスナー」たちそれぞれのメッセージも読み上げた。声に詰まるところもあった。なにせ人生初のYouTube配信だった。
打ち上げのカウントダウンは、会場に足を運んだ数人の協賛者たちで声を合わせた。雨がちな梅雨空だったが、打ち上げ前には全く雨の心配もなく、雲間から月、周囲には蛍の姿も見えるほどだった。
きっと届いた。
それだけでよかった。花火の音は長岡を超えて見附あたりまではこだましたはず。無事に打ち上げを終えて数10分のSNS上では、新潟のいたるところで花火の音を聞いたという人が散見して、お祭り状態が起こっているかのようだった。実はその花火はたった一つの打ち上げ場所から、同心円状に広がった音の波だったわけだ。
ちょうど、FM PORTがこれまでして来てくれたことのようだと思った。
停波という事実。閉局という事実。
それでも、最後の最後のエンディングで、残り15分というところでも、花火の話。さらに、パーソナリティーのどなたかが、「20周年の花火を打ち上げましょう!」とまで。録音メッセージのようだったが、もしかして次は、と未来を感じさせる言葉だった。花火がそんな風に前向きな言葉として語られていることに、驚きもしたし、新鮮な風が吹いたような気がした。
✴︎
ここまで、「FM PORTありがとう花火」の裏側をかいつまんで書き残してみた。最後に、今回のことで考えさせられたことを書く。「ラジオ」と「花火」という新潟の文化について。
新潟の文化といえば、代表的なのは、田んぼでの米づくりと工場でのモノづくり文化。ラジオといえば、ちょうど、じいちゃんのトラクターやコンバインの上でラジオが鳴っていたり、町工場では時計がわりに始終ラジオが鳴っていたりする。そんなイメージがおぼろげにある。
でも2020年の7月からは、「ラジオ」も新潟の文化だと自信を持って言いたい。いかにも独特なラジオ局だったFM PORTが新潟にあったのだから。
何が独特だったのかを語れるほどラジオ業界に詳しくないのだけど、何か独特の包容力というか、少しというかだいぶ角度のずれたコミュニケーションでもOK!な風土があったように感じていた。独自色というのか。オリジナルであろうとすることを良しとする気概があったと思う。思えば、地元・新潟へのスタンス。意外と新潟新潟言うことはなかった。自然体でいることで、かえって新潟らしさを感じさせるラジオ局だった。
自分は以前、地域づくりの分野にいたこともあって、そう言った「地場産」のクサさにはすぐ気が付くのだけど、PORTはそういういやらしさが驚くほどなかった。(その意味では商売下手な気質も新潟らしかったのか…)立石さんがアルビの話をするとき、佐渡の話をするとき、それはシンプルに好きで、知っていて、伝えたいからだと分かった。なんなら、沖縄の石垣島と同じくらいに愛しているんだろうなって(笑
ほぼ自主制作だからできたことなんだろうか。
理由はわからないけど、PORTには不思議な面白さがあった。
FM PORTというラジオはまぎれもなく、「新潟の文化」の一つだったと思う。
最後の最後まで、リスナーを愛し、リスナーに愛されていたラジオ局だったのが何よりの証拠だ。(そしてこの生活習慣に染み付いたPORTロスの辛さ…笑)
翌日の夕方にNHK新潟が放送したPORTの話題は10分にも及んだ。その中には、号泣しながらPORTへの想いを振り返る春日さんの姿もあった。
「これからのラジオって、こんなふうにもっと1人ひとりのリスナーが支えることもできるのかな」
春日さん、それはきっと「花火」も。これまで、花火花火と言ってきた自分でも、今回の一件で花火観、そしてラジオ観をひと回りもふた回りも大きく改めることになりそうです。
みんなで支えることができるラジオ/花火のカタチも、もっとあっていいのかも知れません。
だって、新潟ではラジオ/花火がこんなにも伝わるのだから。伝えたい想いをラジオ/花火に託して、もっともっとおっきく叫んだっていいのかもしれない。新潟なら。
そんな風に最後の最後に、色んなことを気づかせてくれたFM PORTさん、かくれPORTリスナーの皆さん、そして片貝花火サポーターズ倶楽部の関係者、ありがとうございました。
みなさんでまた、これからの「新潟の文化」を育んでいきたいですね。
「花火のち晴れ」は、花火のふるさと“カタカイ”の日々を記録する日記のようなものです。いつもの静かな朝から、熱狂的なお祭りの夜まで。どこにでもありそうで、世界のどこにもないかもしれない、この町の姿を伝えていきます。