春に

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4月2日(月)晴れ

今日から新年度ということになりますね。わたしが片貝に着任して1年が経ちました。あれだけ春が待ち遠しいと散々このページで言っていましたが、もう春と呼んでもいい季節ですよね、気分は晴れやかです。

 

ただ、自分にとって4月2日というのは近年、何かしらの変化がある日で、ドキドキすることが多い日でした。例えば昨年なら協力隊に着任するという変化。その前の年は大学で進級するという変化。その前は大学に入学するという変化。その前は浪人して失意に襲われるという変化。では、今年を考えると、特段上記に並ぶような変化はありません。協力隊2年目ということだけで、環境もやることも大きな変化はありません。

 

ただ、あまり変化がないと言っても、ここで言う変化というのは大体が「外発的な」変化だったなあと、振り返ると思うところがあります。
自分自身ではなく、周りの環境が変わって、変化した気になっていたのだなと。自分自身から変わろうとして起きる「内発的変化」が今まであまりありませんでした。だから今日みたいな日が「なんでもないような日」と思ってしまうのかも知れません。

 

思い返せば、今まで環境に流されてきた生き方をしていたなぁと思います。たまに周りの人(親とか、親しい友人など)が良く言うのですが、「お前は影響を受けやすい」と。確かに影響を受けやすい性格なのは自分でも思いあたる節があります。例えば、中学の時、修学旅行で京都に行ったらはまって、京都の大学に進学したいとか言い出したり。高校では沖縄へ行き、沖縄に住みたいとマジメに思うようになったり。大学で尊敬していた先輩と同じ学生団体に入ったり、口調とか自然と真似していたり。僕は、場所という環境に対して大いに影響を受けたり、尊敬する人のトレースを自分の中で勝手にしていました。だから最近言われたこと

 

「自分、持ってる?」

 

回答は、詰まってしまって、Yesということができませんでした。

自分を持っているか?
すごくシンプルかつ心に刺さる一言。詰まったことに悔しさを感じましたが、同時にどうして断言できなかったのか?自分で気になりました。落ち着いて考えるとこういった悩みに、「言葉」は簡単にでてきます。
・自分を出すのが怖いから
・自分の考えや思いはきっと大したことない。
・そもそも言葉にするのが下手くそだから。

言葉にしちゃうのは簡単だし、並べてみるとわかってるんですよね、自分のことって意外と。
だからこそ嫌になるし、上手く付き合っていくのが時々面倒に感じます。
だから、そんな自分と向き合わなくなってきてちょっと前までとっても悩んでいたことがあり、それは

 

「自分はなにをしたいのだろうか?」

 

ということ。高校の時、倫理なんかで「アイデンティティの拡散」なんて言葉を勉強した記憶があります。
-青年期に決着をつけ、オトナ社会に自己を位置づけ、限定することによって確立されるべきアイデンティティ=自己限定=社会的自己定義が、
何らかの理由でできないために生じる青年期後期に特有な自己拡散状態のことでです。-
難しいWordが並んでいて、難しかったので高校生の私は「大人になっても自分を見失っているやつ、状態」と暗記していました。高校生のときは、なんでそんなことになるのかなぁと若干の疑問、少々の嘲笑が含まれた感情でこの言葉を咀嚼していました。しかし、今現在、私はアイデンティティの拡散の危機?なのかなと思います。

 

 

私は今まで、様々なものに触れて体験して吸収して、様々なたくさんのインプットをしてそこから自分自身の芯を見出していこうと考えていました。なぜならば、私の身の回りには魅力的な人やモノ、環境があると思ったからです。だから、私はインプットはひたすらしていこうと、そこは意識的に、言い換えるならば内発的に行ってきました。しかし、なぜいまこのような状況に陥っているかというと、思い当たるのは「アウトプット」が完全に足りないからなのかなって思います。いろんな考え方、思い方、発想、センス、どれもこれも人それぞれ。なのに、それらを羨ましがり、吸収しようとする、無理なことなのに。だから私は自分自身で「考える」ということをするとすぐに迷宮入りしてしまうことがあります。ぐるぐるしてしまって、言葉にならなかったり「あの人ならこういう時どういった事を考えるかな?言ったりするのかな?」とすぐ自分以外の誰か、が頭をよぎるのです。そこで自分の言葉は陳腐だなとか、浅はかだなとか、考えては悔しくなったり、ならなかったり。

 

春に考えすぎだよと言われかねない内容を綴っていますが、春だからこそ、悩み、考え、心機一転、とスタートを切りたいそう思うのです。
それは環境関わらず内発的に行っていることで、中学3年生のときに習ったある方の詩がきっかけであり、自分の中で大切にしたいと思うことの一つです。そのきっかけの詩は、谷川俊太郎さんの「春に」です。

 

「春に」

この気持はなんだろう この気持はなんだろう 
目に見えないエネルギーの流れが 大地から足の裏をつたわって
この気持はなんだろう この気持はなんだろう 僕の腹へ胸へそして喉へ 
声にならない叫びとなってこみ上げるこの気持はなんだろう

枝の先の膨らんだ新芽が心をつつく 
喜びだしかし悲しみでもある 苛立ちだしかも安らぎがある
憧れだ そして怒りが溢れてくる

心のダムにせき止められ 淀み渦巻きせめぎあい
今 溢れようとする

この気持はなんだろう この気持はなんだろう 
あの空のあの青に手を浸したい まだ会ったことのない全ての人と
会ってみたい話してみたい 明日と明後日が一度にくると良い
僕はもどかしい

地平線の彼方へとあるき続けたい
そのくせ草の上でじっとしていたい
声にならない叫びとなってこみ上げる
この気持はなんだろう

教科書で見たことある方も、合唱曲にもなっていて、歌ったことのある方もたくさんいるのではないかと思います。私はこの詩が大好きです。特に
「心のダムにせき止められ 淀み渦巻きせめぎあい 今溢れようとする」の部分。自分を表すならこういう状態なのかなと思うことがあります。そして、そう思い続けて一体どれくらい経ったのかと思うくらいずっと、私は心のダムにせき止められているのかなと。

 


「いい加減ぶち壊したい」

そう思っているのですが、勇気がない、自信がない。
ただ、そう思い続けてきました。いきなりはぶち壊せないし、いきなり溢れ出したらそれこそ私の場合、収集のつかないことになります。だから、少しずつ溢れさせていきたい。少しずつ自分の考えていることを周りに発信していきたい。というか、発信していかなければ何も前には進まない気がしています。閉塞感に襲われてばかりでずっと自分自身イタチごっこのままだなと。

前の方の文章で書いたのですが、「ちょっと前まで」何がしたいんだろう?って悩んでいましたと。今も悩んでいたらこの記事を書こうとは思いませんでした。
すこし払拭できそうな気がしていて、それは先日、小千谷市で行われたイベントがきっかけでした。


「小千谷の20代~40代が自分と地元の将来についてオモシロ×マジメに学び、話す会」(通称OMK)
このイベントにコアメンバーとして関わり、およそ2ヶ月間、小千谷に想いを持つ同世代の人たちと小千谷のことを深く考えながら、話し合いながら企画し、準備しました。準備の中で今まで思ってはいたけど、吐き出す場のなかった小千谷への思い、小千谷に住んでいる自分の思い、それが見事に決壊してあふれるような議論が繰り広げられていました。

僕はというと、決壊まではしませんでしたが、少しずつ溢れるものを小出ししていました。
当日は50人ほどの人があつまり、小千谷のことを語り合い、イベントは無事に一つの区切りを迎えることができました。

自分の身近がこんなにも熱いあふれる思いが渦巻いていたなんてと、私はそれが衝撃で、かつ悔しかったんですね。
もっとできたとか、もっと思いや考えを言えればよかったって。
だからこのイベントの終わり、自分自身へ手紙のようなものをおくるという振り返りワークが会ったのですが、そこで

「もっと自分を発信する」

と書きました。思っていても伝えなきゃわからない。わかっているけど今までできなかったんです。
でも、いま自分の中で少しやりたいことがあって、それが「町のドラマをつくる」ということ。協力隊2年目はそれを一つテーマに動いていきたいなと思っていて、これを新年度早々どこかに打ち出したい。そう思っていたのですが、やはり外にだすのが怖くて前置きをダラダラ書いていたらこんな長さになってしまいました。

環境の変化がなくても、自分自身に変化を起こす。それがこれから大事になってくるだろう、そう思って協力隊2年目頑張っていきたいと思っています。今まで散々、口だけで終わってきたことも多いですが、今回こそはそれで終わらずこだわっていきます。

春に、心機一転
今年度もよろしくお願いします。

 

それでは。

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