2018.05.23
「祭る」の告知CMが届きましたよ〜!
片貝町の真ん中、忍字亭(旧佐藤佐平治翁邸)とその庭園を会場に、6/23(土)の昼11時から夜9時まで開催のフリーライブイベント「祭る」。
年々パワーアップ、近年は職人の町らしい伝統とコスモポリタンな新たな感性がほどよくリミックス(?)されて、より開放的なライブ環境、アート・セッションの庭になっているように感じます。
今年は片貝の伝統芸能や新潟の瞽女歌を初め、秋田のハイソなバンド、地元から飛び立ったシンガーソングライターに、大人のような少年のようなDJたち…
ジャンルレス、でもみんなどこか共通項があるような、そう感じされる不思議なお祭り空間。
でも、どんなに楽しく、盛り上がるライブイベントだからと言って忘れてはいけないのが、「祭る」というイベントの発端となった江戸時代の故事。知られざる実話。
天明の飢饉、天保の飢饉など、度重なる大飢饉に見舞われていた現在の新潟と長野の県境付近・秋山郷。険しい山と谷に囲まれたその村々は、食糧が尽き、壊滅する村も数多くあったといいます。
1832年(天保3年)、飢えに苦しむはるか70km離れた村からのSOSに答えたのは、片貝村で巨大な酒造業を営んでいた佐藤佐平治でした。江戸中期の醸造量では、当時の越後の国でもトップクラスの生産量を誇っていた佐藤家にあって、佐平治は驚くほどの倹約家で、非常時の備えとして大量の備蓄を蔵に抱えていたのです。
その倹約ぶりから、「忍」の字を囲炉裏の灰に書きなぞっては、人々を戒めたという逸話があります。いつしか「忍字翁」と呼ばれるようになり、佐平治が住んでいたお屋敷は、「忍字亭」として今に親しまれています。
天保4年秋から天保5年春にかけて佐平治が秋山郷の結東村などに送ったとされる救援物資は、米や稗などなんと840俵(!)にのぼったと、現津南町の結東集落の神社にある「佐藤佐平治翁之碑」に説明されています。米100俵どころでない量です。
さらに、興味深いことがあります。
佐平治の意志を継いだ佐藤家はその後も秋山郷への支援を続け、なんと1967年(昭和42年)まで、実に135年間もの長きに渡って、山奥の村々への応援をやめなかったのでした。金銭的支援を断った義理堅い秋山郷の村人たちに対して、佐平治は自ら差し出した寄付金そのものを村人からの借金とすることで、返済利子分を135年間も村へ納め続けたのです。
何が佐平治をそこまでさせたのでしょう。はっきりとしたことはわかっていません。
けれども、佐平治にとっては明快なことだったのかもしれません。現代を生きる私たちがしばしば陥ってしまうように、理由なしには他人に救いの手を差し伸べられない人間ではなかったのではないでしょうか。そう思うと、忍字亭は非常に興味深い場所です。
今、佐平治の遺徳を偲ぶその場所に、若い人も老いた人も集う日があります。
それが「祭る」です。
「佐平治の心を今の世に」そんな思いから始まったフリーライブイベントだからこそ、もちろん入場無料、趣旨に共感する人々の協賛だけで運営されている、現代のお祭りといえるでしょうか。
「花火のち晴れ」は、花火のふるさと“カタカイ”の日々を記録する日記のようなものです。いつもの静かな朝から、熱狂的なお祭りの夜まで。どこにでもありそうで、世界のどこにもないかもしれない、この町の姿を伝えていきます。