2018.07.22
「今度の日曜(22日)に浄照寺でタイシコウがあるから取材してみれ」
町裏(まちうら)のラーメン居酒屋「りりん」で、仲間と時間を潰していたら出くわした親父さんが教えてくれた秘密のお祭りごと、タイシコウ。
小さな蔵の中に大工や職人が集まり、聖徳太子をまつる「太子講」というお祭りが、今もささやかに行われていた。
場所は、茶畑の浄照寺。時は、日曜日の午前9時半。
普段は開かずの、経文などを納める蔵(太子堂)がこの日は開かれていた。
太子堂の白壁を寄進した当時の左官職人たちの連名だろうか。片貝らしい苗字の職人が何人もいたようだ。
『四書・五経』をはじめ『蒙求』や『文選』、『史記』など中国の古典の手習いが整然と積まれていた。西洋化が進む明治の頃まで、学力の基礎として身につけるべき教養だった書たち。今ではあまり顧みられない思想分野だ。
江戸期の片貝で、農民にも広く学問の必要性を説いた朝陽館(片貝小学校の起源)。その設立者の一角だった浄照寺らしい、歴史資料かもしれない。
太子堂の天井には、それぞれの職人?の遊び心が見てとれる。中には子供が書いたと思われるものも(画像上段左端=「六歳童 大矢幹太郎」とある)。
「だいたいの太子堂は掛け軸に描かれたタイシ様だけど、片貝のは珍しいみたいだよねぇ。越路のほうだと、今じゃあ、飲み会の席に掛け軸のタイシ様飾って、それで済ませるらしいんだろも」と、タイシコウに誘ってくれた安達さん。
「サシガネやスミツボを持ってたりするんだよねぇ」と大矢さん。
聖徳太子が大工や建築関係の職人の守護者とは知らなかった。
「昔はにぎわったんだよ。カラオケやったり、ヤシが店出したり。大工に限らず職人が多かったからね。今はさ、会社ごとに保険も入るけど、昔はそうじゃなくて、こういう仲間同士の講があったんだな」
安達さんが見てきた当時からすれば、時代は大きく変わっていた。
それでも、「講」っていうものがつい最近まであったんだな。
よく見ると、小さな太子堂の入り口には見事な細工が。
「中に玉が掘られてるたりするろ?」と大工さん。
「(石川)雲蝶の弟子が作ったものらしいって話だな」と左官屋さん。
「屋根の上にも草が生えて面白い蔵んなった。」
やっぱり職人たちは目の行くところが、違う。と思う。
「花火のち晴れ」は、花火のふるさと“カタカイ”の日々を記録する日記のようなものです。いつもの静かな朝から、熱狂的なお祭りの夜まで。どこにでもありそうで、世界のどこにもないかもしれない、この町の姿を伝えていきます。